新しことを知ること。
生きてゆく上ですごく重要。
新しいサービスや産業がおこり、時代に合ったトレンドを把握してゆかなければ、
希望ある生活はできない。
権力様々方法でわれわれを既存の慣習に従わせ社会のルールにあてはめようとする。
思惑といういびつな鎖は、現代社会に沢山掛けられているようだ。
国難は国が被害を受けることではなく、国の体制で国民が虐げれる様をあらわした言葉なんだとか。
王難苦だったかな?(観音経)
いずれにしても、歴史は繰り返すといことだ。
で、本題。
新しいことを知るということは、すごく大事。
しかし、私たちには失敗という経験やすりこみというものがあって、情報をそのまま取り入れることはない。
前提、もしくは過去の経験で対象を把握できない傾向にある。主観は非常に危険は価値基準である。つまり、我われは物事をフィルターをかけてみる傾向にあるのだ。
その理由は、心の根底には恐れというものがあって、他人の目やうまくいかない経験から危険を冒そうとはしない。せっかくのチャンスを無意識に避けようとする傾向があるのだ。
従って、自分が変革もしくはブリーフを変えなければ、何をしても結果は見えている。
自分の思考は自分勝手に働き、何が起きてもうまくいいわけする。
自分ができない、もしくは嫌なことから逃げ回り>今にとどまりたいと変化したいのジレンマに陥る。
ポールアールシーィは、その心理的状況を揺れと呼ぶ。
私はできない、もしくは逃げ回っていること>けっこうある。
大事なのは、出来ない(やろうとしない)事を把握することだ。
等身大の自分を知れば、結構くつろげる。
力みもなくなる。
大きく見せようとしなくていいし、お酒の席で語らなくてもいい。
つまり主観で見る自分と、客観視できる自分>両方の視点をもつべきなのだ。
自分のことって案外、自分では分からない。
心の奥底で、どんななことを感じているか、もっとわからない。
わからない同士が会話するわけだから、余計わからなくなる。
大事なのは、私が誰でどんな風になりたいかを知っていることだ。
どこにいて、これからどこにすすみたいかをわかっていることだ。
私は変化を好まず、同じ場所にいたがる人って友達にしたくない。
向上しようとか、野心家の気持ちを持っている人を友達にしたい。
そういった人からの影響を、大いに受けたいと深く思う。
変革の時、一人の小さな決断と行動がその流れを左右する。
また来ない時間に大きなビジョンを描き、それを叶えるための努力を続けたい。
自分という未知の存在と対話しながら。
自分の思考という根拠のない行動理由ではなく、大いなるものからの指令を受けるるのだ。
神はすべてを支配し、特に私を通して指令する。
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