私が小学校のころ、何でもこなせる先生がいた。
私には男兄弟がいない。幼少のころ私は、男兄弟がほしかった。
小学校の担任の先生が大好きで、先生というよりはかなり年上のお兄さんという存在だったかもしれない。
中学に入って私は自ら勉強するようになった。
勉強が好きでない私が、机に向かって教科書を開き予習するようになったのだ。
勉強するときに誰に聞いたわけでもないが、学習計画のノートをつけるようになった。
学習計画のノートには、学ぶ学科と内容を書きこみ、終わったら自分の学習について評価した。
学習の評価は3段で分けた。評価はそれぞれ、Aは集中できた。Bは気分はまあまあ、Cは集中できず、楽しめなかったと自分で記入した。
中学に入って私は好きな教科を見つけた。
その好きな教科は英語である。
英語の担任は、身ぶり手ぶりで楽しそうに英語というものを表現した。
私ははじめて好きな科目ができた。
その後、高校の英語は私にとって楽しいものにはならなかった。
急に語彙が増え、私に英語に対する意欲がなくなってしまったのだろか?
だが、その時学んだ英語の科目は、大学受験で私を助けてくれた。
私立大学の科目は当時、国語、社会、英語の3科目で、差がつく科目は当然英語になる。
受験は大半の時間を英単語と英熟語の暗記にあてた。
繰り返し読んで書いて、できているかどうかを自分でテストした。
大学に入ってからは、勉強というものをしなくなった。
振り返れば、大学の学科を間違えたのかもしれないともおもう。
昨年ごろから、私は再び英語という語学を学ぶようになった。
本格的には、ここ2カ月といったところ。
最近は英語を学んでいて、手ごたえを感じてきた。
見慣れた英単語をみると、「あっこれ見たことがある」とうれしくなる。
教育や学習は非常に個人的な領域で、誰かに何かを教えるということではなく、学ぶきっかけや手段が分かれば、いわれなくても勝手にやりたくなるのではないかと感じている。
私が学生時代、勉強ができたわけではないが、疑問に思うことがあるとなんでだろうとか、できないスキルがあればどうやったらできるかを考えるほうだと思う。
現在の学校教育は、子どもたちに聞けばいいかどうかが分かる。
子どもたちへの教育の場が、先生の働く場所に変わってしまった気がする。
現代社会はめまぐるしく情報がとびかい、企業間の競争は熾烈を極めている。
現実は、私たちは生存競争の社会にいるのだ。
生存競争を勝ち抜き、社会をよりよいものにしていくためには、新しいことを学んでゆく道しかない。
最近、かなり古い英単語のカードがでてきた。
この単語カードは、私のおじさんが使っていたものだ。
リングにカードを挟みひっくり返して覚えてゆく。
教材はいい悪いはなく、いかに何度も繰り返しやればいいと考えている。
教育とは、自分を磨くためにすべきもので、自分好きなことを掘り下げていけばいいと思う。
その楽しさを味わえば、新しい世界が広がってゆくような気がする。
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