戊辰戦争(会津戦争)で自発的に娘子隊を結成し、戦死したことで知られています 。
🏯 生い立ちと武芸の背景
江戸・会津藩邸に生まれ、幼少期から百人一首をそらんじ、
書道や薙刀(なぎなた)に優れていた才女でした 。
薙刀は師・赤岡大助に学び、道場で師範代も務めていたと伝わります 。
武と文の両面を極める人物として評されました 。
⚔ 戊辰戦争と闘い
1868年、会津が新政府軍に追い込まれると、中野竹子は母・妹らとともに娘子隊を結成。
女性ながらも最前線で薙刀を振るい、新政府軍に立ち向かいました 。
もとは許可されていなかったものの、「自害する覚悟」で直談判し、従軍が認められたと伝えられます 。
🕊 最期と遺志
戦闘中に胸を銃弾で撃たれ重傷を負うと、
「首を生け捕りにされるのは武士の恥」だと妹に介錯を頼んで自ら命を絶ちました 。
その潔さと勇敢さから「烈女」「武士の精神を体現した女性」として称賛されます 。
🌸 句碑と顕彰
辞世の句は次の通り
「もののふの猛き心にくらぶれば/数にも入らぬ我が身ながらも」。
この句碑と彼女の像は会津若松周辺の史跡(涙橋や法界寺など)に立てられています 。
毎年、会津若松では稚児隊を中心とした行列が行われ、彼女ら娘子隊の勇敢さが偲ばれています 。
💡 まとめ
中野竹子は、ただの武芸の達人ではなく、信念と覚悟を持って戦い、潔く命を賭けた女性武士です。
文武両道を極めた彼女の生涯と最期は、幕末の激動期における会津藩の誇りを体現するものと言えるでしょう。

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